名古屋 税理士のこんな運用
一九五○年代のロンドンのシティでは、前もってコネクションの関係を築いておかなければ、どんなビジネスを行うこともほとんど不可能であった。
重要だったのは、何を知っているかではなく、誰を知っているかであった。
私がロンドンを離れたのはこの理由からである。
ロンドンにおける私のコネは大したものではなかったので、チャンスはニューョークの方がはるかに大きかったのである。
私はあまり名の知れていない証券仲買会社で働きだしたが、まもなく大手の数社と定期的な取引が行えるようになった。
ロンドンでは絶対にそのようなことは起こりえなかっただろう。
しかしそんなニューョークでも、証券引受業務となると、まだまだコネの関係が万能であった。
各引受会社は、ある種の固定した序列によってシンジケートに参加しており、会社の序列が上下に移動することは一大事件であった。
しかしこれも今は昔である。
今では、すべての取引は一発勝負であり、投資銀行家たちはパイの一片を求めて右往左往しているのである。
個別取引とコネ取引との相違点については、いわゆる囚人のジレンマという形のゲームの理論によって詳しく分析されている。
一人の罪人が捕らえられて尋問を受ける。
一方が他方に不利な証言をすれば、自分は軽い刑ですむが、相棒が重刑に処されるのは確実である。
一人を一組として考えれば、お互いに信義を守ったほうが身のためとなるが、自分のことだけを考えれば、相棒を犠牲にして甘い汁を吸うこともできるのである。
個別取引の場合は、裏切る方が理に適っているが、永続的な関係の場合は、信義を守った方が引き合うのである。
この分析は、時の経過とともに協力関係が発展する可能性を示していると同時に、一発勝負の取引が、永続的な関係の座を奪うことによって、いかに協力と信義とが損なわれるかを示す例としても使うことができる(注5)。
これらすべては、社会的不均衡を定義づける境界線と、錨としての価値の役割についての最初に発した設問に関係する。
われわれは、社会的ないし道徳的価値を当然のものとして受け取りやすい。
われわれは、価値は本質的なものまたは基本的なものとしてとらえ、その有効性はいま広くいきわたっている状況から独立したものであると思いがちである。
前にも指摘したように、これほど真実からかけ離れたものはない。
価値は相互作用的なものなのである。
価値は社会の状況によって影響を受けると同時に、社会の状況をいまあるように作り出すのにもひと役買っているのである。
人々は、神が十戒を授けてくれたのだと本当に信じることもできる。
もし本当にそう信じるとすれば、社会はもっと正しく、もっと安定したものになるだろう。
反対に、道徳的なくびきの不在は、不安定さを作り出す原因となるのである。
個別取引中心の社会は社会的な価値を損ない、道徳的な抑制力を緩めてしまう。
社会的な価値とは、他人への思いやりを示すことである。
その意味するところは個人が家族であれ、部族であれ、国家であれ、人類全体であれ、とにかくあるコミュニティに属していて、その利益が個人の私欲に優先する、ということである。
一方、取引中心の市場経済は、コミュニティとは似ても似つかぬものである。
その中では、すべての人間は自己の利益のみを追求し、道徳的な良心はこの食うか食われるかの世界にあっては、障害物になりかねない。
純粋な取引中心の社会の中では、他人への思いやりなどに煩わされていない人間の方が、動きやすく、人に抜きん出る確率も高いのである。
しかし、そのような社会といえども、倫理的、道徳的考慮がまったく欠けているとはいえないことも見逃すべきではない。
外部からの抑制力は失われているかもしれないが、内部的な抑制力が残っている可能性はある。
現代人が競争一途の人間に変わってしまったとしても、そうした変容が起こったのはごく最近のことである。
しかも人間は、初めから競争人間として生まれるわけではない。
人間は成長するにしたがって、社会的価値を身につけてゆくものなのである。
だからこそ社会的価値の問題が、今でも意味を持っているのである。
純粋に取引中心の社会というものは、けっして存在することはない。
しかしわれわれが現在、歴史のいかなる時代よりも、純粋な取引社会に近いところにいることは確かである。
あとでみるように、このことはグローバルな観点からみた場合、とくに目立つ現象である。
ほぼ均衡に近い状態と均衡からほど遠い状態との間の境界線および社会的価値の役割について、われわれは何を語ったらよいのだろうか。
とりあえずわれわれは、価値を一種類に分けることから始めよう。
ひとつは、結果がどうなるかにかかわらず人々が信奉する基本的な原理であり、もうひとつは、人々が自分の行動の結果を予測し、もっぱらその予測だけを頼りに作り上げる功利主義的な価値である。
基本的価値を信ずる人々は、しばしばそれが自分の考え方からではなく、あるほかの源泉から生まれたものだと思っており、したがってその価値の有効性は自分がその価値を認めるか否かとは何の関係もないと思っている。
啓蒙運動の結果として、理性と科学が独立した権威のもととなっている今日でも、基本的価値の典型的なパートナーは宗教的信条である。
功利主義は支えてくれるそうした外的な権威を持っていない。
それどころか、功利主義は時の権力の社会的指針としばしば衝突し、そのため劣等感や、さらには罪悪感とまで結びつくことがある。
功利主義的な行動をとる人は、常に社会の支持を求めている。
もしある行動の方向が肝心な人たちの理解を得ることができなければ、そもそもそれは功利主義といえるだろうか(他のだれをも気にしないというのは非常に極端なケースである)。
あからさまな私欲の追求も、広く認められるようになれば功利主義となるのである。
基本的な原理と功利主義とに二分することは、明らかに窓意的な作業であるが、だからこそ有効でもある。
こうして区別されるふたつの分野は、明らかに両極端である。
両者の間には、何らかの中間的な分野があるはずである。
事実、私がその正体をつかもうとしている開かれた社会のほぼ均衡に近い状態は、原理主義(ファンダメンタリズム)と純粋な功利主義という両極端の中間に存在するのである。
われわれはふたつの境界線を必要としている。
ひとつは、ほぼ均衡に近い状態を静的不均衡の状態と区別する線であり、もうひとつは、それを動的不均衡の状態と区別する線である。
第一の線は、基本的な原理にかかわるものであり、第二の線は功利主義にかかわるものである。
開かれた社会には、正しいことと悪いことについての、何らかの基本的な合意が必要であり、人々は、時には不愉快な結果を招くことを知りながらも、正しいことを行う用意がなければならない。
たとえば、祖国防衛のためにはせ参じたり、自由を守るために立ち上がらなければならないのである。
これはわざわざ言及する必要のあることである。
功利主義が幅を利かす取引中心の社会では、人々は不愉快な結果を避けたがる。
しかし、行動はえてして予期せぬ結果を生むという事実を無視して、人々が基本的価値に無条件で入れ上げるとするならば、それもまた開かれた社会にとつて脅威となりかねない。
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